『広島久徴会誕生の頃を思い出して』と題して、 4期の岩成 勝善さんと、13期の吾郷 克己さんに語っていただきました。

 4期の岩成 勝善さん

 1987(昭和62)年の島根県人会に出席しましたところ、出雲高校の同窓生が大勢参加していました。
 広島には広島大学に進学、そのまま広島で公務員や地元の企業に就職した人が多いのです。
 出席した後輩達と話して見ると、 5期の吉田 俊成君や8期の立岩 弘君は父の中学の教え子でしたし、合銀の10期の板倉 義重君もいました。その席で東京から転勤して来た三菱樹脂の 6期の日野 繁君が、同期の福間 利行副会長(現会長)から、
 「広島でも久徴会を立ち上げてくれと頼まれている」と、広島久徴会設立に協力を要請されました<。
 私の同期の森山 宗瑞(故人)君も副会長ですし、「やろう!」という事になり、早速私の勤務先の東芝の会議室を借りて準備に取り掛かりました。
 母校から貰った名簿を見て広島市安佐南区役所に13期の吾郷 克己君が勤務しているのが判ったので、吉田君、日野君と3人で押しかけ、事務局をやっていただくようにお願いしました。これは正解で今でも頑張ってくれています。
 スタートするまでは、吉田、日野、私の3人で強引に準備を進めましたが、広島は転勤族が多いので、『会長をはじめとして役員は広島に定住する人』というルールを鉄則とし、地元で弁護士活動をして居る立岩 弘君を会長に選びました。
 あれから15年がたち、総会を休んだ年もあったそうですが、10期の橋口 満君たちの努力で去年(2000年)の秋リニューアルしたと聞いています。

 

 

13期の吾郷 克己さん

 当時私は広島市安佐南区役所に勤務して居ました。岩成さん外3名の方々が、「事務局を担当していただきたい」と押しかけられ、承知した状況でした。
 したがって、人・者・金すべての面に発起人の言われる通りに実行致しました。
 当時リーダーシップを取って指導いただいたのは、岩成さんもその一人ですが日野 繁さんでした。

『広島久徴会創立の経緯秘話「-5万円でスタートした広島久徴会-」』と題して、
6期の日野 繁さんに語っていただきました。

 創立を決意したきっかけは、1987(昭和62)年に東京から広島支店へ転勤して来た私が、管轄下の山陰地方のお客様に新任のご挨拶廻りをしていた時、私と同期生で久徴会の副会長(現在は会長)だった福間 利行君の経営される福間商事にお伺いしたことに始まります。
旧交を温める会話の中で福間君は「出雲高校卒業生は島根県を除けば一番多いのが関東、次が関西、三番目が広島で、広島より人数の少ない岡山でも久徴会が結成され、九州でも設立の動きがある。これまで何度かトライして来たが、広島では未だに同窓会が誕生していない。君の転勤をきっかけに広島久徴会の誕生に力を貸して欲しい」と強い要望を受けました。
 私はこれまでに会社の仕事の中で得意先の全国ネットを構築した経験もあるので「せいぜい200~300名程度の〈会〉を作るのはたやすい事だろう」と軽はずみにも「OK」と安請け合いしてしまいました。
 これが結成までに沢山の人に迷惑をかけることになる始まりでした。
 当時は同期生の槙原 道夫君が母校の先生をしていたので早速、久徴会名簿の中から広島地区在住者の名前をピックアップして貰いました。ところがこの名簿を見た時300名位と予想していたのは大誤算で、700名~800名の名前が並んでいて、「到底私一人では手に負えない・・・」と安請け合いをしたことを正直「しまった」と後悔したのを今でも思い出します。
 丁度そんな折りに島根県人会が開催され、ここで 4期の岩成 勝善、 5期吉田 俊成の両先輩、後に会長になる弁護士の8期立岩 弘、山陰合同銀行の 10期板倉 義重君に出逢ったのです。
 その場で久徴会本部が、広島久徴会創設を要望していることと、福間君から是非誕生させてほしいと頼まれていることを伝え、協力を要請します、と心からの賛同を得ることができました。古来「窮すれば通ず」と云われている通り、助っ人が、救いの神が突然出現した思いでした。「善は急げ」と早速打ち合わせの日が決まり、一寸先が見えて来ました。岩成さんの勤務先の東芝の会議室を借りて岩、成・吉田・立岩・板倉・私の5人が集まり、私が久徴会本部の意向、福間君からの創立のための条件を伝えました。
 その条件の
  第一は、 『「軍資金無し」=ボランティアでやってほしい』、
  第二が、『今市高女の先輩の同意を得てほしい(さもなくば久徴会の名称が使えない)』
 の2点でした。
 「久徴会本部も厚かましいことを言うものだ」と笑いながら、その場で各自1万円を寄付、計5万円の資金で創立の為の具体的な活動が週一回のペースでスタートしたのでした。
 創立準備会→(役員の事前選出〉→発起人会→創立記念総会を1988(昭和63)年秋に開催するという構想を立てました。
 今だから裏話を披露しますと、私の経験から「事前に基本方針を決定しておかないと準備会などの運営が出来ない」との信念から、岩成、吉田両先輩と私とで次のように方針を確認しておきました。

 ①発起人会までは、岩成、吉田、日野の3人がリードする
 ②創立総会以降は、地元定住者に完全移管する
 ③基本的には、転勤族は役員に選出しない
 ④各期の世話役を選出する
 ⑤総会後は、岩成、吉田、日野の3人は身を引き表には出ない

以上の基本方針は《会》の永続性と地元への定着化のための必須条件と信じていたからです。
 先ず、第一の仕事は、高女の先輩のご賛同を得た上、発起人として参加していただかねばなりません。ある日、岩成、吉田、日野の3人は名簿のアドレスを頼りにある先輩のご自宅を訪問、話を切り出すと、開口一番
 「私は出雲は大嫌いです」と言われれ、一瞬びっくり。どうなることかと成り行きに不安を感じましたが、私達の説明を聞かれるにつれて心から打ち解け、発起人の一人になっていただけた時の事は忘れ難い思い出の一こまです。高女の先輩と言えば、14期の新宮 三津子さん、27期青木 偉智子さんの積極的なご協力を今も感謝しております。その後は、当初の計画通りに準備作業は順調に進み、会長に地元で弁護士として活躍する 8期の立岩 弘氏を選出、1988(昭和63)年 9月17日、広島県民文化センター鯉城会館で設立総会が開催される運びとなりました。当日は4期澄田信義島根県知事を筆頭に来賓15名、一般会員89名が参加する熱気溢れる会となり、感慨深いものがありました。
 後になりましたが、名簿で13期の吾郷 克己君が広島市安佐南区役所に勤務されているのを発見し、3人で押しかけ、強引に事務局を押し付けましたが、我々が睨んだ通り大活躍していただきました。
 「広島にも同窓会を誕生させたい!」、この目標に向かって情熱を傾けたのですが、今思うと押し付けがましいことや、強引に事を進めたことなど関係者にご迷惑をかけたことを遅まきながらお詫び申しあげますと共に、広島久徴会創設という機会に参画させていただきましたことを嬉しく、また、光栄に思っています。
 今後の広島久徴会の益々の御発展を祈っております。