関西久徴会を育ててきたひとびと~思い出を語る~

(1999(平成11)年 5月15日発行『関西久徴会「会報」20号』より抜粋)

 

 関西久徴会は、正式な組織としては1963(昭和38)年 5月26日に「久徴会関西高校部会」として発足した。
 その当時は、ある限られた年度の同期会的な色彩が強かったという。しかし、その後の諸先輩の活躍で、今日のように関西に住まう「出雲高校」および「今市高女」卒業生全体を含む同窓会に発展した。その活躍された諸先輩を代表して、 7名の方々に思い出を、そして山村今市高女関西久徴会会長には今後の夢を語ってもらった。
(ただ、「記憶が定かでなく、期日等に関しては自信がない」との添え書き付きのものもありました。お気付きの点がございましたら、事務局までどしどしお知らせください)

私の忘れ得ぬ一つの思い出
      錦織先生のピアノ
 2期 園山 泰久さん 創設者
私にとって大阪はビジネスの故郷です!  4期 宮岡 種徳さん 2代会長
草創期の思い出
      「関西久徴会」の名付け親として
 6期 (故)大錦 義昭さん 3代会長
私の忘れ得ぬ一つの思い出
      若い会員の参加に感激
 9期 (故)宮岡 興徳さん 4代会長
会長として12年
      マンネリ打破に苦心
10期 竹下 俊夫さん 5代会長
私の忘れ得ぬ一つの思い出
      女ごころと同窓会
 4期 杉谷 保憲さん 6代会長
忘れ得ぬ思い出二つ  7期 今岡 昌滋さん 7代会長
30年の「久徴園のまどい」
      ~高女同窓生の総会参加を~
高女26期・
高校 3期 山村 順子さん
高女3代会長

私の忘れ得ぬ一つの思い出「錦織先生のピアノ」

園山 泰久さん( 2期)創始者

 

 母校就職指導部から関西地区就職者の集会の世話をするように依頼を受けたのは、1950(昭和30)年代の末でした。
 引き受けるに当って、同じやるなら、全卒業生を対象にしたものを・・・と欲張ったことを考えたばかりに、会場、予算等、自分の力では、とてもかなわぬ問題が、起こりました。
 それと言うのも、これまでの集会は新就職者を対象にした学校主催の集いで、なにわ会館で、おこなわれていました。
 私は困ったあげく、勤め先の大和紡績から会場を借りることを考え、当時の錦織 興総務課長に、お願いしました。錦織課長は1950、51(昭和25、6)年頃母校の社会科の講師をされた異色の経歴で、授業は受けませんでしたが私の恩師でもあります。しかし仕事は別です。錦織課長は暫く考えてから自分は知らぬ事にして、主任と直接話すように・・・との事でした。そうなると、OKされたのも同然です。
 そして会社としては前例のない会場無料使用許可を頂き、給食室の調理師さんも休日出勤してくれました。
  2年連続で大和紡績で開催する結果となりましたが、最初の年の。パーティーに錦織先生が突然顔を見せられ簡単に挨拶をされたかと思うとホール片隅のグランドピアノの蓋を開け、二、三音、声合わせをされた後、いい声でイタリア民謡を歌われました。その演出の鮮やかさに驚き、また挨拶で会社のこと、自分の功など一言も口にされず立派な人柄に感動したことでした。
 あのとき、もし他の人が課長であったら、最初の関西久徴会はお流れだったかもしれません。
 先生は、数年前に他界されましたが、今あらためて先生の人柄を偲び、ご冥福を祈る次第です。

私にとって大阪はビジネスの故郷です!

宮岡 種徳さん( 4期)2代会長

 

 投稿依頼の電話がありましたが、約40年前の事になります。出雲へ帰ってからでも今年で満30年が経ちます。困惑しておりますが、朧おぼろに記憶を辿ってみましよう。
 最初に大和紡績本社勤務の園山 泰久さん( 2期)から呼びかけがあり、私も東洋紡績本社に勤めていた関係で親近感を持ち御堂筋の大和紡へお邪魔し二人で関西久徴会の発足の幹事役をしました。帝人の森山 寛厚さん( 1期)や日本毛織の下川 敏雄さん( 2期)等紡績業が日本のリーディング産業として一番華やかな時代で往時をしのび懐かしく思い出されます。
 園山さんの厚意で大和紡の別館を借りて第一回の集会をし、関西久徴会の船出をしました。
 1960(昭和35)年春に脱サラして、その後開業の挨拶に園山さんを訪れた時、会の連絡事務所と会長を引き受けるよう、うまく乗せられました。総会は北区梅ケ枝町の島根ビルで 2~ 3度開催したように思います。1965 (昭和40)年春、枚方市に新設された「洋服を作る楽しい街」に招かれ、枚方に移住しました。その縁で、次は枚方在住の大錦 義昭さん( 6期)にバトンタッチした次第です。会長引き継ぎの総会で大錦さんが憲法9条「戦争放棄」について滔々と論じられ、会長挨拶とされた事を感銘深くまた心強く思い、肩の荷をおろしたことをはっきり記憶しております。
  2年に一度の総会に20~30名集めるのがひと苦労で同窓生の方々へ電話して参加を呼びかけましたので、関西久徴会というよりは 4期の関西同窓会の観を呈し、他の参加者の方々には申し訳なく、特に女性の方には気を使い「次回にはぜひ同窓生を誘って来て下さい」と握手のサービスもしましたが、二度と再会が叶わなくて淋しかったこともありました。
 しかし同窓生で二次会に行き、飲みかつ談笑した思い出が懐かしく、今でも大阪出張は楽しみです。本町の伊藤忠から御堂筋を梅田へと歩く途中、出雲からの解放感と青春の日への追憶を辿りながら、中之島公園を散策することがあります。私にとって大阪はビジネスの故郷です。関西久徴会の益々のご発展を心よりお祈りします。

草創期の思い出 「関西久徴会」の名付け親として

(故)大錦 義昭さん( 6期)3代会長

 

 私の手許にある資料の中に、1963(昭和38)年 5月26日に定められた「久徴会関西高校部会会則」があります。
 同日、大和紡で開かれた総会(63名出席)の時に定められ、その席で会長には森山 寛厚先輩(1期)が選ばれました。この時は、母校より吉田校長が出席されています。そして、翌1964(昭和39)年 6月 1日の大和紡での総会、翌々1965(昭和40年 5月23日の島根ビル「レストランフカモト」での総会も森山会長のもとで開催されました。
 そして、続く1966(昭和41年 5月29日(49名参加)、さらに1967(昭和42)年 5月28日の総会は、新しく宮岡 種徳先輩(4期)の会長のもと「フカモト」での開催となりました。
 私が会長に選ばれたのは、1967(昭和42)の総会においてであり、それから1971(昭和46)年の総会で宮岡 興徳さん(9期)にバトンを渡すまで 4ケ年つとめさせてもらいました。
 ところで、私が会長になるまでは、当会のことを当時の会則第一条に明記されていた「久徴会関西高校部会」という呼称で呼んでいました。しかし、私は、この呼称は長くて不便だし、今市高女の卒業生も含む意味を込めたいと考えました。そこで、「関西久徴会」としたらどうかということを幹事会で提案し、了承していただきました。1968 (昭和43)年のことです。
 かくして1969(昭和44)10月発行の名簿には表紙に「関西久徴会」と印刷されることになり、2頁目に県立今市高等女学校校歌と県立出雲高等学校校歌を掲載することになったのでした。
 実は、高女の先輩の方々とは、会の組織運営について十分な意志疎通を欠いた撼がありましたが、飯国 幸代大先輩(高女1期)を顧問にいただくことで円満裡に収拾したことを記憶しております。
 当時の事を一生懸命思い出してみたのですが、何といっても30年も前のことです。記憶はもとより資料も不十分で定かには思い出せません。しかし、関西久徴会の草創期にいささかでも尽くし得たものがあるとすれば、本当に光栄なことだと思っています。
 関西久徴会の発展を祈りつつ。
                                                        擱筆

私の忘れ得ぬ一つの思い出 若い会員の参加に感激

(故)宮岡 興徳さん( 9期)4代会長

 

 新緑の素晴らしい季節を迎えました。関西久徴会の皆様には益々ご壮健にてご活躍のことと心からお喜び申し上げます。
 私が関西久徴会へ初参加致しましたのは、1963(昭和38)年 5月開催で場所は南森町(梅ケ枝町)の島根県大阪事務所の2階であったように記憶しております。出席者は高女の皆様と高校 4期の皆様方の総勢20人前後であったように思います。その後、梅田駅前の阪神百貨店の6階催し会場であり会議室であったように思います。
 毎年、総会を楽しみとし、出席するようになり、また期の幹事役としてお手伝いするようにもなりました。高女の方々、 4期、 5期、 6期の先輩の皆様には大変親切にご指導頂き、また親しくして頂き可愛がって頂いたことを忘れ得ません。
 例年、高女、高校 4期・ 6期を中心として多い年の参加で20人、少ない年で15人程度の参加だったように思います。大錦 義昭会長になってからもなんとかしなければならないと相談会を何度か開いたものでした。当時から事務局のお手伝いをさせて頂いているうち、大錦会長も仕事柄ご多忙であり若手が引き継ぐべきだとの意見もあり、1971(昭和46年)に事務局兼幹事代表をお引受けした次第であります。
 ムード一新と若い人の参加を考え、大阪南のニューミュンヘンに会場を変更して開催したところ、近年にない多数(40人前後)の参加者があり大変感激しましたことを憶えています。当日、同期の竹下 文夫氏、10期の竹下 俊夫氏ご兄弟の初参加を頂き、また若い人達の参加を得た二重の喜びと感激を今でも忘れ得ません。出雲に帰りましてからも先輩や後輩の皆様方とのお付き合いが続いていて、お手伝いをさせて頂きました事が大きな喜びであり思い出の一つであります。
 私が事務局兼幹事代表をしました時期、高女、 4期・ 6期の先輩の方々後輩の方々、幹事役をお引受け頂いた皆様のご支援ご協力を頂いたことに対して紙面をお借りして、お礼を申し上げます。感謝で一杯です。

◇当時の印象に残る常連出席者

▽ 4期=勝部 明生氏、北村 匡章氏、黒川  光氏、杉谷 保憲氏、宮岡 種徳氏、佐々木 進氏、飯塚  悟氏
▽ 6期=大錦 義昭氏、井上 稔氏(現在、北海道在住)
▽高女=山下 初子氏、加藤 ミチヱ氏

会長として12年 マンネリ打破に苦心

竹下 俊夫さん(10期)5代会長

 

 宮岡 興徳 会長( 9期)からバトンを受け継いだのは確か1974(昭和49)年の総会時と記憶しています。私にとっては思いもかけないことでした。そもそも関西久徴会に初めて参加させていただいたのが1971(昭和46)年であり、会長と同期の兄のところへ総会の案内が届いたことが始まりでした。長らく東京で仕事をしてきた兄には「関西久徴会」が何の会なのか理解出来ず私に尋ねてきたことで私もそのような会が大阪で開催されていることを知り、一度参加してみようということになったからです。
 それ以来、毎年参加はしていたのですが、会の設立のいきさつや経過とか運営等については殆ど知らないまま、初参加から 3年後に会長という大役を押しつけられてしまいました。以後、1986(昭和61)年の総会において杉谷 保憲氏( 4期)にバトンタッチするまで12年間、会の運営等に当たらせていただきました。
 当初、各期の幹事さんは殆どの方が設立以来の幹事さん達でしたのでそのまま引き続き留任してもらいました。幹事さんの中には今日でも役員や幹事をなさっておられる方々もあり、約35年の長期に亘って会のためにご尽力をして下さっていることに、頭が下がる思いでいっぱいです。
 当時、総会・懇親会の会場は大阪南、千日前通りから戎橋筋を北へ入ってすぐ右側にあるビアレストランのミュンヘン南店と決まっていました。経済事情も現在とは大いに異なっていたこともあり、安価でたくさん飲食できる店(支配人がふるさとの大社中学の方で、いろいろ便宜を図っていただけたと記憶します)であることや、誰にでも解りやすい場所であるということで決めていたように思います。最初の頃は 5、 6月の適当な日曜日に会員参加者50~60名に高校の校長先生等数名で、正午頃から始めていました。高女と高校が一体となった会であり、春に卒業した近畿在住の後輩達を格安な参加費で歓迎したり、一年ぶりの再会に話の花を咲かせたり、また母校の様子に耳を傾けたりと賑やかな懇親がメインの内容でした。
 活力ある会の維持運営というテーマに関して、ただ継続をしているだけでは、やがてマンネリ化が進行し、会が尻すぼみになることは一般的にもよく言われているところで、関西久徴会においても例外ではなく、幹事さんの転勤やUターンにともなう後任幹事が見つからないなどによる幹事会の弱体化、高女との総会の分離、そして開催が 9月や10月にずれたり同時に参加者が減少する(一時は参加者が35名前後位)という形で現れました。
 かねてより、同窓会、OB会や同郷会などのような会は、参加の意義は会員一人一人が自分で見つけることから始まるものであると思っていましたから、私の独断でしたが、幹事会の了解を得て総会開催を止めてみることで、会員から”総会開催の声”が起こることを期待しました。果たせるかな「今年は総会をしないんですか?」「総会の案内が来ないんですが・・・」といったような問い合わせがたくさんあり、幹事会では、これならばいけると確信を持ちました。たくさんの方々からの貴重なご意見などを集約して、リフレッシュ関西久徴会を目指すこととしました。再スタートには新鮮味と工夫が重要でした。新会長を杉谷 保憲氏( 4期)にお願いし、また幹事会には各期から誰かが幹事になってもらうことを原則とすることで、以前に増して充実した幹事会構成を図りました。
 会に対する一人一人の思い入れと周到な準備のおかげで1986(昭和61)年、OBPに新築オープンしたばかりのホテル、ニューオータニオオサカにおいて、多数の来賓のご臨席のもと会員約 180名が参加して賑やかに、また晴れがましく”再生関西久徴会”が開催され、たいへん盛会でした。

 それ以降、会長さんのよきリーダーシップのもとで、役員・幹事・会員が一丸となった会の運営が定着し ”活力あふれる関西久徴会”として隔年ごとに総会・懇親パーティーを開催していることは皆様がご承知の通りです。

私の忘れ得ぬ一つの思い出 女ごころと同窓会

杉谷 保憲さん( 4期)6代会長

 

 関西久徴会の会長をつとめたのは1986年から 3年間である。実のところ竹下兄弟をはじめ当時の幹事たちが大車輪で働かれ、私がなにほどかの仕事をしたわけではないのだが、そのせいか幹事会の空気は自由闊達であった。
 現在、総会は 2年に一回であるが、それまでは毎年開くのが原則であった。隔年開催より毎年が良いというように思われるが、幹事になってみると毎年開催は準備に追われる。幹事は働き盛りの年齢なのでこれは激務になる。そこで隔年開催を提案したが反対もあった。”一度欠席すると 4年も会えなくなる”という訳だ。この件は納得してもらったが、会場選定では大いにもめた。当時の会場は大衆的な大食堂(お座敷風)とか企業の施設であった。食事代、酒代をきりつめ個人負担を軽くしようとしていたし、それは貧しい出雲人としては当たり前のことであった。
 ところが大反論が展開された。
 ”会場が場末の××屋ではおもしろくない。一流ホテルでやるべきだ。女性は服を新調しても、それを着て出かける場がない。せめて同窓会だけでも身も心もウキウキしたい。ましてや 2年に一度しか会わないのだから・・・”
 私はおずおずと抗弁した。
 「ホテルでやるのは若い人たちに負担が重すぎるのではないか?」
 「あなたはオンナゴコロがわかっていない!」
 ぴしゃりと押えられて、その年から会場は一流ホテルになり、関西久徴会は僅かに衣替えをした。思い返せば私たちも経済の高度成長期のなかにいたのである。

忘れ得ぬ思い出二つ

今岡 昌滋さん( 7期)7代会長

 

◎思い出1 首長・政治家と久徴会
 1989(平成元)年11月に大阪クラブで関西久徴会総会を開催しましたが、その 2年前に島根県知事に澄田 信義氏が当選され、また1989(平成元)年には華麗なる転身と話題をさらった岩國 哲人氏が出雲市長に当選、この二氏はご夫妻とも言わずもがなの久徴会員、当総会に両夫妻に出席して頂き花を添えてもらった記憶が鮮明に思い出されます。
 また、1996(平成 7)年の総会には岩國氏の後のやはり久徴会員である西尾市長と錦織衆議院議員(当時)の出席を得たことも記憶に新しいところです。

◎思い出2 「敗れてもうれし涙」
 これは1989(平成元)年12月29日のデイリースポーツ紙のタイトルです。第69回全国高校ラグビー大会が東大阪花園ラグビー場で例年の如く開かれ、母校は五回目の出場で史上初めて「初トライ」をあげた。島根県勢としては10年かかって成し遂げた快挙!相手は東京の明大中野高校。試合は「 9対38」で敗れはしたものの選手も応援団もうれし涙で喜んだ。なにせ全国47都道府県で島根だけがそれまでスコアボードの得点欄にゼロ以外の数字がなかった。その屈辱を我が母校のラガーメンがはらしてくれた。 生駒おろしの寒風にさらされウィスキーのポケットビンをすすりながら応援した関西久徴会応援団の面々は、念願果たした感激で花園の飲み屋で祝杯をあげた。
 飲み屋の親爺さん
 「勝ったんでっか?」、「いや負けましてん」「なんで祝杯でんねん?」、「トライしたんや」、「?」・・・
(ラグビーをするならトライするぐらい当たり前だと思っている飲み屋には、いや飲み屋でなくても久徴会員以外理解の出来ない出来事でした)
 -今日では、島根はスポーツに力を入れている私学が代表校になっている。

1989年12月28日 花園ラグビー場にて「夢にまで見た 初トライ!!」
1989年12月28日 花園ラグビー場にて「夢にまで見た 初トライ!!」

30年の「久徴園のまどい」~高女同窓生の総会参加を~

山村 順子さん(高女26期・高校 3期)高女3代会長

 

 第30回今市高女関西久徴会は1999(平成11) 4月 7日、大阪城と満開の桜がお部屋の窓一杯に見えるKKRホテル大阪で開催されました。一回生の飯国 幸代さんを初代会長に迎えて発足して以来、二代目の会長を12期の天野 一枝さんが引き継がれ、校歌の「久徴園のまどい」の延長の和やかな会が30年も続いて来たのです。
 この会は、京都・大阪・神戸の三地区を毎年回り持ちしています。ですから出席者は当番地区の方が中心になりますが、京都は京風に、神戸はモダンなホテルで、大阪は「何と言っても太閤さん」と、幹事さんの気配りが魅力で、会が長続きしたと思われます。
 昨年春の会で「会長を押し付けたのですから、皆で久徴会の総会に出席しましょうね」と仰有て下さった 13期の米原 世知子さんが秋には急逝され、寂しく思っていますが、世代は違っても故郷を同じくする者同志、多感な年ごろを同じ学校で学んだ者同志、楽しい交流のときを持つことが出来ると信じています。和やかな今女の同窓会の集いと共に、一人でも多くの高女同窓生の方に楽しい総会にご参加頂くことを21世紀の大きな目標にしております。